道徳的な人の傲慢さ
親に感謝しよう、皆で仲良くしよう、真面目に働き社会貢献しよう、協調性を持とう、謙虚になろう、活動的になろう・・・
こういった、誰が聞いても一見正しそうな道徳観を持っている人がどうも好きになれない。
このような綺麗事ばかり言う根が明るい人達に共通している特徴は、物事を深く観察して考えないと言う事、自分と他人の区別がついていない事であるように思える。一般化するのは危険だが少なくとも私の周りを見渡すとこれらの特徴が見られる。
彼らの掲げる一見正しそうなモラルは、実は彼らが自分の考えでたどり着いた道徳観ではなく、集団の中で善人を演じているうちに植え付けられた根拠の無い偏見なのである。
彼らはその植え付けられた偏見に疑問を持たない。他人から植え付けられたものだとすら気づいていない。そして、自分と他人の区別がつかないので、他人も同じ道徳観を持っていると思い込み、それが普遍の正義だと勝手に信じているのだ。
そして、彼らは、その道徳観から外れた人に、非常識というレッテルを貼り、人格批判をし、排除する。それは他者を認めない事によって生じる差別やいじめと同じ構造だ。
そして最も腹立たしいことは、自身のその醜悪な攻撃性には無自覚で、悪を糾弾することを正義だと本気で信じているのだ。
そもそも、誰かに深刻な損害を与えない限り、親に感謝をしなくても、働かなくても、協調性が無くても、それは本人の生き方の選択であり、他人がそれを非難する根拠はないはずである。
物を考えない彼らは無自覚に善意によって他者を差別し、傷つけるのだ。
そして、そう言う人間に限って他人からの批判に対して「そこまで人を傷つける様な酷い事言う必要ないだろ」と言う。
他人は傷つけても構わないが自分は傷つきたくない最も醜悪な種類の人間だ。